2025年01月17日

阪神淡路大震災から30年が経ちました!

阪神高速の橋脚が倒れて、高速道路から観光バスが落ちそうな写真を記憶されている方は多いと思います。
私は震災当時、その現場から山手へ400mほどの芦屋市前田町という場所に住んでいました。
震災当日の朝、次女は同社大学まで通うために起きていて「キャーお父さん助けて」と悲鳴を聞いたが、私のベッドは左右に2~3mは揺れていて、どうすることもできなかった。地震の揺れが止まり部屋の見ると、足の踏み場もなく、とりあえず靴下を履き各部屋を見ると食器棚は倒れて食器は粉々になっていて、ピアノはリビングの中央に鎮座していた。私の車はシャッターを突き破り道路の真ん中まで出ていた。車のエンジンがかかったので道路の端に車を止めて、息子に飲料水を買いにコンビニ走らせて、一人10本までとパンと菓子類を少々買うことができた。
向かいの5階建てマンションは隣のマンションにもたれかかっていた。マンションの住民は窓からドアが開かないと助けを求めている。
裏の木造上宅では1階は完全にぺしゃんこになり2階が1階になっていた。
反対側の木造住宅も傾いていた。声をかけると助けて下さいという声が聞こえる。
息子と二人で壊れたブロック塀のかけらでガラス窓を割り中へ入るがタンスなどで出入り口は塞がれて、声は聞こえるがどうすることもできない状態であった。高齢のご夫婦が閉じ込められているが、何も道具なくて困っていたが、声のする部屋の壁をコンクリートブロックで少しづつ割っていき 壁に2~3時間かかって穴を開けて、やっとおじいちゃんを助け出した。
しかし、おじいちゃんは2階から飛び降りるのは怖いというので、息子に蒲団を用意させてご近所の男性4~5人を集めて、下で受けてもらうように段取りをし、私がおじいちゃんを2階から突き落として近所のご主人方で受け止めていただき病院まで運んでもらった。おばあちゃんも助けて下さい!寒いです!と訴えるが、道具がなくコンクリートブロックで壁を割っている程度は限界がある。
途方に暮れていた時にレスキュー隊?が来たので救助を依頼するが、助けを求める人はたくさんいて順番を待ち、やっとの思いでチェンソーで柱を切り始めたが、訓練を受けていない「にわか仕立てのレスキュー隊」なので、私はレスキュー隊員に、そのところをを切るとおばあちゃんが死ぬぞとしかりつけた!!私は息子にブロックのかけらを数個用意をさせて、柱を切ってもおばあちゃんが大丈夫なように準備してチェンソーで柱を切り隙間をつくり、おばあちゃんを引っ張り出そうとするが、おばあちゃんの体力はなく引っ張り出せない!おばあちゃんは寒いというが
レスキュー隊員の声が荒くなり「おばあちゃん!自分からも出るように努力しろ!」と怒鳴っている。私が救助を始めてから7時間が経過していたころに、おばあちゃんを引っ張り出せた。救急車は来ないと分かり、息子にご近所で毛布の準備と車の運転のできる方に声をかけて病院まで走れる人を段取りさせて、何とか芦屋病院まで運ぶことができました。白いジャンパーは血で染まり真っ赤な色をしていました。
このご夫婦は1年後に故郷へ帰る前に、私にご挨拶に来られたそうですが、当時の私は休みなしの激務でお会いすることはできませんでした。
そんなドラマのような30年前の阪神淡路大震災の記憶です。
また、いつ来ておかしくないという「南海トラフ巨大地震」が心配です・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
南海トラフ巨大地震は阪神淡路大震災よりはもっと大きな地震と予告されていて、どのような対策が取れるのでしょうか?自問自答しています。

  
Posted by 斉藤榮三 エクステリアン at 05:46Comments(0)阪神大震災

2023年01月17日

もう28年前の出来事になりました「阪神淡路大震災」です!

私が当時住んでいた芦屋市も、ひどい被害を受けました!

次女は京都の同志社大学へ通っていたので5時過ぎには起きていて、地震が起きるや否やお父さん助けて!!と悲鳴を上げていた・・
私の寝ていたベッドは、左右に2~3mも揺れておりベッドにしがみ付いていたことが、今でも鮮明に記憶に残っています。
息子は起きるとすぐにコンビニへ水を買い求めに走り、一人10本まで買えたと大きな袋を抱えて帰ってきました。
私の車はシャッターを突き破り道路の中央まで出ていました・・
向かいの4階建てマンションは隣のマンションにもたれかかっていた・・
周りの住宅のブロック塀は大半が道路に倒れて車は走れない状態であった・・

国道43号線では阪神高速の高架橋が倒れていた!
阪神高速道路では、観光バスが空中で止まっていた光景は今でも記憶jに残っています・・

すぐ近くの集会場には避難してきた多くの人が集まっていた。座る場所もなくトイレも流せる水もなくひどい状態であった。
私は会社が心配で会社に向かうが、国道2号線は渋滞で車は全く動かない!私は混んでいない裏道を走り武庫川大橋まで来ると道路と橋とが20センチくらい段差があったが、車は全くない状態だったので車体を斜めにして何とか武庫川大橋に乗り171号線の尼崎市まで走れた。車はほとんど走っていないので1時間ほどで会社に到着すると社員たちが出勤して地震の後片付けをしてくれていた。
それからは、ドラマのような生活が2~3年も続きました。
もう28年前の出来事です。

  
Posted by 斉藤榮三 エクステリアン at 05:00Comments(0)阪神大震災

2018年08月26日

高槻市寿栄小学校のブロック塀倒壊現場は・・

大阪北部地震から2か月が経ち・・・
昨日、高槻市寿栄小学校のブロック塀倒壊現場の前を通りましたら・・



仮囲いのままで、塀の新設は行われておりませんでした。
どのような塀になるのでしょうか?

  
Posted by 斉藤榮三 エクステリアン at 07:00Comments(0)阪神大震災よもやま話

2018年01月17日

阪神淡路大震災から23年目になり「人生は偶然の連続だ」と思っています。

阪神淡路大震災が発生したとき、私は48歳でした。

当時、芦屋市前田町に住んでいましたが、近隣の木造住宅の大半は被害を受け悲惨な状況でした・・
私は積水ハウスのイズ ステージという住宅に住んでいました。
鉄鋼系プレハブ住宅だったので、被害はほとんどなく今このように元気に暮らすことができています。

人生は偶然の連続だと思っています。

幸せと感じる人生をおくれることに感謝しています。

  
Posted by 斉藤榮三 エクステリアン at 00:00Comments(0)阪神大震災

2016年04月20日

熊本大震災は、日を追うごとに被害は大きくなって終息はいつになるのでしょうか

平成28年熊本大震災は、日を追うごとに被害は大きくなっている・・



私は21年前の阪神淡路大震災を経験をしました・・
私の住んでいたのは、芦屋市前田町で被害の大きなところでした・・
今の熊本県や大分県の被害にあわれた方々の心情が痛いほど分かります・・

地震が発生した当日 国道2号線が何時間も車は止まったままでした。
私は会社が心配で1週間ほど暮らせる荷物を車に積んで深夜の2時に家を出たが、至る所で道路は寸断されていた。
何十年と暮らした町なので、地理には詳しく裏道を通ってやっとの思いで会社に着いた。

芦屋と比べると豊中はずいぶん被害は少なかった。
会社の倉庫の一角に布団を引いて寝床を確保したが、余震のたびに建物はグラグラと揺れる。何度も私の人生は終わりかと思った。

それから2ヶ月間は必死で生活をしました。
神戸の街を見ると復興は何十年とかかるような感じであったが、10年もかからないうちにほぼ復興ができたように思う。

東日本大震災は、津波もあり復興は道半ばという感じですが、熊本県や大分県の復興は阪神大震災の経験則を活かしてほしいと思うばかりです・・




  
Posted by 斉藤榮三 エクステリアン at 07:00Comments(0)阪神大震災日々の暮らし